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北方謙三の「三国志」が横山光輝の漫画版より圧倒的に面白いワケとは?

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こんにちは、ちうぱんです。

ここのところ歴史小説にどっぷりハマってます。

自身の歴男ぶりを振り返ると、学生時代に読んだ司馬遼太郎の戦国三部作に始まり、若桑みどりのクアトロ・ラガッツィや宮城谷昌光の天空の舟などなど、日中欧を舞台とする名作をいろいろ読んできました。

そして今回・・・

手を出すべきか数年間悩んだのが、北方謙三の「三国志」。

全13巻(滝汗

生半可な覚悟では太刀打ちできないボリュームですが、意を決して読了しました。

いやこれ、長かった!

でも面白いので、スキマ時間に100ページくらいスッと読めちゃう。

ちなみに、日本最長の歴史小説は「大菩薩峠」と「徳川家康」。

中里介山「大菩薩峠」全41巻

山岡荘八「徳川家康」全26巻

大菩薩峠は作者死去のため未完の大作となっています。

大菩薩峠は著作権が切れてるので、kindleでタダ読みできます。この2作は自分もいつか読みたいと思ってます。

北方謙三の「三国志」が横山光輝の漫画版より圧倒的に面白いワケとは?

さて、三国志と言えば、普通の人がイメージするのは横山光輝の漫画版ですよね。

第1巻「桃園の誓い」から、「蜀漢その後」までの全60巻におよぶ大作でした。

横山光輝の三国志って、なぜか床屋やラーメン屋に置いてますよねw

だから、通しで読んだことはなくても、どこかで読んだ記憶のある人も多いハズ。

自分も横山光輝の漫画三国志は大好きな作品です。

原典に忠実な歴史漫画としては、異例の面白さだと思います。

面白いし、大好きなんですが。。。

北方謙三の小説三国志を読んでしまうと、漫画版はどうしても見劣りするんですね。

三国志は北方小説版のほうが圧倒的に面白いです。

もちろん、中国の史上最も有名な古典を、小中学生でも読めるように作品化した横山光輝の教育的功績は計り知れませんよ。

でも、漫画版の三国志を楽しめた人には、ぜひとも北方謙三の小説版を読んでもらいたいですね。全13巻ですが、絶対に読む価値があります。

なぜ横山光輝三国志が物足りないのか?

そもそも漫画と小説ではフォーマットが違うので比較は難しいんですが、横山漫画版の物足りなさを3つほどあげさせてもらいますね。

1)主要武将以外の登場人物がいない

まず第一に登場人物の少なさですね。

横山漫画版には、主要武将以外の登場人物がほとんど出てきません。

キャラクターを増やすと顔を描き分けるのが大変ですからね。

北方謙三の小説三国志では、曹操の密偵である石岐や五錮(ごこ)の者、呂布の馬丁である胡郎など、武将たちの下で働く無名の人々が、じつに生き生きと描かれています。

2)漫画版は三国志の「あらすじ」

登場人物の少なさとも関連するんですが、漫画版は三国志の「あらすじ」くらいに考えた方がよさそうです。

小説版では数ページを費やすような経緯が、漫画版では数コマで描かれたりします。

三国志の概要を短時間で読破できるのは漫画版の強みですが、内容的な厚みや歴史コンテンツとしての面白みでは、圧倒的に北方謙三の小説版のほうが勝っています。

ちなみに、北方謙三の小説三国志は正史を、横山光輝の漫画三国志は三国志演義(正史を題材にした小説)を原典にしていると思われます。たとえば、北方版三国志には呂布が董卓を裏切る原因となった架空の美女貂蝉は登場せず、呂布は天衣無縫の英雄として描かれます。

3)劉備が主人公なので後半がダレる

横山光輝の三国志は、劉備玄徳を中心(主人公)とする物語です。

劉備目線による「善vs悪」の構図は非常にわかりやすいんですが、逆に言えば劉備以外の登場人物は脇役です。曹操や孫権すらキャラ立ちしてません。

横山漫画版は劉備が主人公なので、45巻で劉備が死んでしまうと、主人公不在のままダラダラと後日談が続くような感じになっちゃうんですよ。

横山漫画版の最大の欠点は、後半以降の面白みの無さでしょうね。

それでは以下、北方版三国志の概要と名場面を振り返ってまいります。

北方版三国志 第1巻「天狼の星」

中国後漢末期の西暦184年、宦官の専横政治により世は乱れていた。苛政に反発する黄巾軍の蜂起は一大勢力となり、その討伐に劉備・曹操・孫堅の3英傑が名乗りをあげるところから物語が始まる。

「時は、後漢末の中国。政が乱れ賊の蔓延る世に、信義を貫く者があった。姓は劉、名は備、字は玄徳。その男と出会い、共に覇道を歩む決意をする関羽と張飛。黄巾賊が全土で蜂起するなか、劉備らはその闘いへ身を投じて行く。官軍として、黄巾軍討伐にあたる曹操。義勇兵に身を置き野望を馳せる孫堅。覇業を志す者たちが起ち、出会い、乱世に風を興す。」(第一巻表紙文より)

そんな中、霊帝が立太子しないまま崩御すると、袁紹のクーデターにより宦官は誅滅される。その混乱の中で新帝の身柄を確保したのが董卓だった。董卓は西の辺境涼州の一軍人にすぎなかったが、新帝の後見人となるや、都洛陽で圧政を敷いた。

これに対して気を吐いたのが曹操である。曹操が打倒董卓の檄文を飛ばすや、たちまち30万の反董卓連合が結成された。しかし、戦意の低い連合軍は、董卓の前線すら崩すことができない。その間に董卓は、あろうことか洛陽の街を焼き、自身の根拠地に近い黄河上流の長安に遷都を強行してしまう。

長安で暴虐の限りを尽くした董卓であるが、文官の最高位にある王允の計略により、呂布の手で斬殺される。その王允も自身の専横から反感を買い、董卓の残党により討たれてしまう。 

天下を志す3英傑の中で、領土拡大の意思を最初に示したのは孫堅であった。黄巾軍討伐の功績により長沙太守となった孫堅は、近隣の荊州刺史劉表を攻めるも、劉表麾下黄祖との戦闘中に流れ矢にあたり死ぬ。

以上が第1巻の概要(あらすじ)です。

引き続き、第1巻の見どころをご紹介してまいりましょう。

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北方版三国志は次の一節から始まる。

草原が燃えていた。
火は拡がることはなく、ひとすじの煙をあげているだけだ。男は息をこらした。煙は次第に近づいてきて、やがてそれが土煙であることも見てとれるようになった。馬の姿が現れた。

劉備玄徳が金で雇った義勇兵とともに、馬泥棒を退治するシーンである。

日本人がイメージする劉備玄徳は、吉川英治や横山光輝の描いた人物像に基づいていると言っていい。

しかし、北方版三国志における劉備玄徳は、荒々しく、ときに冷酷だ。

盗賊団の戦陣に先頭で切り込み、敵を剣で突き殺しては、馬上から蹴落とす。

その一方で・・・

(劉備)「私が一千の兵を率いて王朝に仕えているというのであれば、多少は人に語れることかもしれん。中山靖王の後裔は数えきれないほどいるだろう。いまの私が語ればむなしいだけだ。」

漢王室の復興という野望と現実の間で苦悩する一青年としても描かれる。

ちょっと陰気かも?というのが劉備の第一印象なのだ。

そこに転機が訪れた。

盗賊退治のために雇われた義勇兵の中に、24歳の関羽と17歳の張飛がいたのだ。

(劉備)「実は、待っていた。二人がほんとうに来てくれるかもしれないと、心の底では待っていた。それは熱い思いだった。なにしろ、はじめて夢を語った相手だったのだからな。」

かの有名な「桃園の誓い」である。

桃の木の下で・・・

「我ら生まれし時は違えども、願わくば同年同日に死すべし!」

みたいなセリフは無い。。

薄暗い劉備の家に関羽と張飛が集まり、豚肉を喰らいながら劉備軍の旗揚げを誓った。

とても地味なシーンですが、独自の三国志観を創ろうという北方謙三のこだわりが感じられる場面だと思いますね。

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その一方で、人品骨柄卑しからぬ優等生として描かれるのが曹操孟徳である。

曹操は29歳にして洛陽の都で騎都尉(近衛騎兵隊長)に昇進していた。

だがしかし・・・

血筋がなんだ、という思いも曹操にはあった。父の嵩は大尉にまでなったことがある。大尉といえば名目上の軍の統率者だが、その職を金で買ったとさえ言われていた。祖父の騰は宦官で、したがって嵩は養子である。宦官の家系に生まれたということが、幼いころから曹操の心に影を落としていた。

無官無職の劉備とは雲泥の差ながら、曹操には宦官の家系という負い目があった。

性を奪われた宦官たちの欲求は、まさに金と権力の追求である。

その宦官による専横が乱世を呼んでいた。

(曹操)「盧植の後任が、董卓だというのか」
長く、辺境で戦ってきた軍人だった。辺境の戦とは、やり方も違えば、環境も違う。せめて皇甫嵩を後任に持ってこよう、という具申をする者も、朝廷にはいないのか。

ここで董卓の登場。

董卓は宦官に金を握らせることで、清廉潔白な盧植に代わり、黄巾軍討伐の総大将の座に就いてしまったのだ。

悪名高い董卓であるが、この時点では一人の高級軍人にすぎない。董卓は黄巾軍の戦法に関する経験不足のため惨敗し、すでに実績のあった皇甫嵩に総大将を代わられてしまう。

ちなみに「黄巾軍」とは、張角を教祖とする太平道信者による一揆衆であり、張角は信者を36教区に分け、政権転覆のため一斉蜂起させた。張角はこの戦いの前後に病死し、黄巾軍は指導者を失うこととなった。

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三国志、最後の一人が孫堅である。

奪えるだけ、奪ってやる。孫堅は、そう思っていた。幼いころから、父に連れられて舟で商いをした。時には海賊もやった。父の代から集めた金は、どれほどになるか孫堅にもよくわからなかった。

中国南方の沿岸部で生まれ育った孫堅は、表も裏もある快男児として描かれる。

立身出世のため黄巾軍征討に参加する孫堅だが、のちに都洛陽での董卓討伐戦の際、廃墟の井戸から伝国璽(玉璽)を入手するというエピソードもある。

劉備と同じく庶人の生まれだが、父から受け継いだ富があった。孫堅は戦功と賄賂により、長沙郡太守にまで出世する。

しかし・・・

なにかが、躰を貫いていった。光か。そう思った。光に貫かれたような気しか、しなかった。(中略)空を見たいと想った。首が持あがらなかった。

孫家の家祖とも言うべき孫堅だが、袁紹を後ろ盾とした劉表との小競り合いの最中、流れ矢をうけて平凡な死を遂げる。

しかし、孫堅の偉大さは、孫策、孫権という偉大な息子を残したことだった。

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さて、黄巾軍討伐で戦功のあった劉備は、北方の中山郡安喜県の県尉(警察署長)に任じられることとなった。

ところが!

劉備の任地を視察に訪れた督郵(監察官)が、露骨に賄賂を要求してきた。

これに対して劉備は・・・

(劉備)「安喜県は大丈夫だと思っていたが、豚のような盗人が現れてしまったな」

えっ?

状況を飲み込めない督郵さん。

豚役人の顔面に劉備の鉄拳が刺さる。

オラオラオラオラオラオラオラ!

上司にあたる督郵をぶん殴った劉備は、関羽や張飛らを連れて出奔してしまう。

(関羽)「兄者は、ごく稀にだが興奮すると見境がつかなくなる。そんな激しさがなければ、大望も抱けないというものですか」

北方謙三の描く劉備は破天荒ですね。

横山光輝の漫画で知られる好青年とは全然違う(笑

再び放浪の身となった劉備であるが、この快事は名声とともに知れ渡るのだった。

ちなみにこの頃、曹操は妾との間に曹丕をもうけた。魏の初代皇帝である。

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引き続き世は乱れている。

叛乱は、もはや手がつけられないような状態になっている。しかも、太平道が起こした黄巾の乱のようなものではなく、地方で力を持った豪族が起こしたりしているのだ。
つまり、漢王朝に対して叛乱が起きているのではない。漢王朝の中で、反乱が起きはじめていると言ってもいい。

叛乱が起きても鎮圧できない。

その原因は漢王朝の地方統治が崩壊しているためである。

この国は、州があり、その下に郡があり、さらにその下に県がある。州には刺史がいるが、それがうまく機能していない。
実質的な権限は郡の太守が持ち、州の刺史は太守を監視する程度で、危急の場合の指揮権はほとんど持ち得なかった。

州の刺史を頂点とする地方統治が機能していない。本来は漢王朝の役人であるはずの郡の太守が地方領主化し、叛乱討伐の名目で私兵団を強化していたためだ。

そこに目をつけた野心家が登場。

州の刺史の権限を大幅に強化して、牧という名に変えようという献策がなされた。幽州などの刺史をつとめた、劉焉である。

新たに設置された「牧(ぼく)」という官位は、行政権と軍事権を併せ持つ地方長官である(従来の州刺史は行政権しか持たない)。さらに、劉焉は「牧」の設置を献策すると、自ら益州牧を志願し、峻険な山々に囲まれた南西部へと下っていった。この後、劉焉は益州で独立王国の建設を目指すこととなる。

さらに、中央の軍制も再整備され、その将軍に任じられたのが、曹操や袁紹など三国志の若き群雄たちである。

中央軍が八つに編成された。隊長を、西園八校尉という。曹操はそのひとりに入り、幼馴染の袁紹も入っていた。総指揮をとるのは宦官の蹇碩だが、あとは新進の若い将軍が任じられた。

そして、ついに霊帝が崩御する。霊帝崩御後は、後継者争いや宦官への反目によるクーデターが勃発し、新帝の身柄をおさえた董卓による圧政が敷かれた。曹操の呼びかけによる反董卓連合は足並みが揃わず、その間に董卓は強引に都を黄河上流の長安へと遷都してしまう。

反董卓連合に参加した孫堅は、董卓に焼かれた洛陽に入城すると、井戸の中から伝国璽を発見する。孫堅は、領地の長沙へと帰還を図るが、孫堅から伝国璽を略取するよう袁紹から指示を受けた劉表に、道を阻まれてしまう。孫堅と劉表の小競り合いは孫堅優位に展開したが、劉表配下の黄祖との一戦で、孫堅は流れ矢を受けて死ぬ。

北方版三国志 第2巻「参旗の星」

長安で暴虐の限りを尽くした董卓であったが、司徒(文官最高位)王允の姦計により、自らの養子である呂布の手で討たれる。しかし、王允による統制は長続きしない。王允による董卓派への粛清は厳しく、これに反感を持った残党らにより命を奪われる。長安の都は董卓治世時よりも混乱をきたし、新帝(献帝)の権威は地に堕ちた。

「繁栄を極めたかつての都は、焦土と化した。長安に遷都した董卓の暴虐は一層激しさを増していく。主の横暴をよそに、病に伏せる妻に痛心する呂布。その機に乗じ、政事への野望を目論む王允は、董卓の信頼厚い呂布と妻に姦計をめぐらす。一方、兗州を制し、百万の青州黄巾軍に僅か三万の兵で挑む曹操。父・孫堅の遺志を胸に秘め、覇業を目指す孫策。そして、関羽、張飛とともに予州で機を伺う劉備。秋(とき)の風が波乱を起こす。」(第二巻表紙文より)

一方、天下への足場固めを目論む曹操は、兵力100万の青州黄巾軍を相手に勝利し、黄河中流の兗州に根拠地を得る。しかし、隣接する徐州への出兵中、陳宮の裏切りにより兗州を失ってしまう。長安から流れてきた呂布を主とした陳宮は手強く、曹操は兗州を奪還するのに1年を要した。

北方版三国志 第4巻「列肆の星」

流浪の献帝を許都に迎え、自立の意志を明らかにした曹操であったが、河北4州を統一した袁紹が曹操侵攻を開始する(官渡の戦い)。袁紹は、黄河北岸に30万の大軍を布陣させると、南の劉表、袁術に、許都を挟撃させる策を企てた。さらに、曹操の敵は袁紹だけではない。自ら「丞相」を名乗る曹操に対し、献帝一派が曹操排斥を企てる。

宿敵・呂布を倒した曹操は、中原での勢力を揺るぎないものとした。兵力を拡大した曹操に、河北四州を統一した袁紹の三十万の軍と決戦の時が迫る。だが、朝廷内での造反、さらには帝の信頼厚い劉備の存在が、曹操を悩ます。袁術軍の北上に乗じ、ついに曹操に反旗を翻す劉備。父の仇敵黄祖を討つべく、江夏を攻める孫策と周瑜。あらゆる策謀を巡らせ、圧倒的な兵力で曹操を追いつめる袁紹。戦国の両雄が激突する官渡の戦いを描く。(第四巻表紙文より)

一方、呂布により徐州を追われた劉備は、曹操による呂布討伐後も、曹操のもとで客将の身に甘んじていたが、曹操から袁術討伐を指示されると、南方への征討の途中で反旗を翻し、曹操の守兵が手薄となった徐州を強奪する(袁術軍は袁術の病死により離散した)。しかし、官渡の防衛戦で手一杯のはずの曹操の急襲を受けると、不意を突かれた劉備は袁紹を頼って逃げた。この敗戦により、劉備の2人の妻と関羽が、曹操の捕虜となる。

さらに曹操は、劉表麾下で対曹操の急先鋒であった張シュウ(及びその軍師賈ク)を寝返らせ、朝廷内の反乱分子を根絶やしにした。さらに、袁紹と結ぶ可能性のあった孫策を暗殺するとともに、孫輔(後継者孫権の育て親)の籠絡により孫家の分断を図った。曹操はこれら果断な判断と行動力により、全軍を袁紹に向ける体勢を整えたのである。

袁紹との直接対決では、関羽と許褚の活躍により緒戦を制し、袁紹軍きっての豪傑、顔良、文醜を討った。なおも、袁紹軍30万に対し、曹操の兵力は半数程度と不利であったが、奇襲により袁紹軍の糧道を断つと、袁紹軍は張コウの降伏などにより総崩れとなり大敗北を喫した。

なお、袁紹の客将として官渡の戦いに参戦していた劉備は、南から許都を挟むという口実で官渡を離れ、散り散りになっていた関羽、張飛、趙雲と合流した。

北方版三国志 五の巻「八魁の星」

曹操と袁紹の二度目の直接対決は、程イクが献策した十面埋伏の計により勝敗が決した(倉亭の戦い)。負けるはずのない戦で連敗を喫した袁紹は、後継者を指名しないまま血を吐いて死んだ。袁家は長男袁譚と三男袁尚との対立により結束できず、黄河北岸の要衝黎陽を曹操に陥とされてしまう。

強大な袁紹軍を官渡の戦いで退けた曹操は、ついに河北四州の制圧に乗り出した。軍勢を立て直した袁紹との再戦にも勝利し、曹操軍は敵の本陣である黎陽を目指す。袁紹の死、さらには袁家のない分が、曹操に追い風となる。暗殺された孫策の遺志を継ぎ、周瑜とともに江夏を攻める決意をする孫権。張飛との戦いに敗れ、飛躍を目指し放浪を続ける張衛。そして荊州の劉備は、放浪の軍師・徐庶と出会い、曹操軍の精鋭と対峙する。(第五巻表紙文より)

官渡の戦役後に袁紹のもとを離れた劉備は、荊州の劉表に庇護を求めた。精強な劉備軍は、南への領土拡大を目論む曹操軍に対する防衛線を任され、流浪の軍師徐庶の献策により曹仁の八門金鎖の陣を破る。さらに、荊州の西(漢中)から張衛率いる五斗米道が侵入するや、僅かな手勢で張飛がこれを撃退した。

袁紹の死後、服喪のつもりで袁家への攻勢を緩めていた曹操であったが、長男袁譚の守る青州に向けて三男袁尚が進軍した隙に、袁尚の本拠地である鄴(ギョウ)を襲い、河北四州の制圧に乗り出した。領土を追われた袁尚は、次男袁煕とともに烏丸族を頼って北方に逃げた。長男袁譚は一度は曹操に降伏したものの、袁尚の脅威が去るや野心を再燃させ、その咎で曹操に討たれた。曹操は、17歳になった後継者曹丕を河北制圧に伴うが、言動の小賢しさや酷薄さばかりが目についてしまうのだった。

曹操の河北制圧により、孫権と劉備に危機が迫っていた。孫権は、領土内の豪族・海賊に手を焼き、自身の失態から猛将太史慈を失ったものの、自慢の水軍力により西方への領土拡大に意欲を燃やしていた。

一方、劉備には転機が訪れようとしている。徐庶と劉備は互いを認め合う関係になっていたが、仕官直前で曹操の横槍が入った。曹操は劉備が軍師を得ることを恐れ、徐庶の母を懐柔してしまったのだった。曹操の軍門に下らざるをえない徐庶は、去り際に諸葛亮孔明の名を劉備に伝えた。 

北方版三国志 六の巻「陣車の星」

劉表の庇護下で7年もの歳月を過ごした劉備であったが、三顧の礼により諸葛亮孔明を軍師に迎えることで天運が開ける。漢王朝の再興という劉備の志に胸打たれた孔明は、魏蜀呉の三国体制へとつながる「天下三分の計」を劉備に授けた。

曹操の烏丸(うがん)への北伐が成功し、荊州が南征に怯えるなか、劉備は、新たなる軍師を求めて隆中を訪れる。諸葛亮孔明、「臥竜」と呼ばれ静謐の竹林に独りで暮らす青年に、熱く自らの志を語る劉備。その邂逅は、動乱の大地に一筋の光を放つ。周瑜が築き上げた水軍を率い、ついに仇敵・黄祖討伐に向かう孫権。父を超え、涼州にその武勇を轟かせる馬超。そして、曹操は三十万の最大軍勢で荊州と劉備を追いつめる。(第五巻表紙文より)

この間、曹操は北方4州(幽州、冀州、并州、青州)を完全に掌握し、袁紹の息子である袁尚と袁煕を、逃亡先の公孫康に命じて殺させた。さらに、朝廷の最高官職である三公を廃し、自ら丞相の座につき権勢を振るった。しかし、袁家掃討の遠征中、荀彧の後継にと考えていた郭嘉が病死する。自身の後継者問題も含めて、次世代の人材が育たないことは、曹操にとって大きな悩みであった。

その他の群雄についても触れておく。父孫堅と兄孫策の遺志を継いだ孫権は、自らが大将として率いる初の戦で、父の仇である黄祖を討ち取り、江夏郡での地歩を固めた。また、涼州では、馬騰率いる馬一族が、西からの脅威として曹操を牽制していた。その馬騰も、老いては帝への尊崇を深め、曹操の支配下にある許都で宮仕えを始める。父馬騰に代わり、頭目として一族を率いることになったのが、豪傑として名高い馬超である。

さて、わずか数千の手勢を率いるにすぎない劉備にとって、「天下三分の計」は雲をつかむような話であったが、その第一の目標は、曹操と孫権による二強決戦を回避させることであった。言わずもがな、曹操が揚州を獲ることになれば、天下の趨勢は決し、天下三分の計も成り立たなくなる。

そこで、孔明は荊州との州境を守る曹操軍に奇襲をかけ、曹操の矛先を孫権から荊州に向けることに成功する。曹操が20万の大軍を率いて荊州に進軍すると、高齢のため没した劉表に代わり国政をあずかる蔡瑁は、無抵抗に曹操に降伏した。そこで劉備は、劉表の子で後継者争いに破れた劉琦(キ)を孫権の支配地域に隣接する江夏太守に担ぎ、そこへ曹操軍をおびき出すことにより、孫権との局地同盟を完成させた。なお、劉備軍が江夏へと南下する途中、趙雲が劉備の妻子を救出する「長坂橋の戦い」がある。

 

 

 

孔明は「戦略」と「戦術」の違いを説いた。戦術とは目の前の戦に勝つための作戦であり、劉備軍は精強であっても、戦術のみに拘泥していると指摘する。しかし、より大局的な目標を果たすため、ときには意図して敗走するような思考こそが戦略であると。その戦略を授けようと孔明は言うのである。

 

孔明の初陣は、荊州との国境を守る、曹操軍の守将楽進への奇襲であった。孔明の策では、この奇襲に勝つことが目的ではなく、曹操の矛先を荊州に向けることが狙いなのである。すなわち、曹操が荊州より先に揚州を潰してしまっては、天下三分の計が成り立たないということである。

孔明の計略に嵌った曹操は、20万の大軍を率いて、荊州への進軍を開始した。その途上、荊州を治める劉表が高齢のため死去すると、影の実力者であった蔡瑁は、あっさりと曹操に降伏する。

劉備は、劉表の子で後継争いに破れた劉琦(キ)を江夏太守に担ぎ、そこへ曹操軍をおびき出すことにより、孫権との局地同盟を完成させた。

その頃、涼州では、馬騰率いる馬一族が、西からの脅威として曹操を牽制していた。その馬騰も、老いては帝への尊崇を深め、曹操の支配下にある許都で宮仕えを始める。父馬騰に代わり、頭目として一族を率いることになったのが、豪傑として名高い馬超である。

というわけで、今回は以上っ!